パリはルイ王朝時代からファッションを受け継ぐ時代の最先端にありました。当時のファッションを世界に広め
るために、ファッションドールが生まれました。
その年のファッションを人形に着せ、世界に向けて送り出し流行を知らせました。
多くの人形師を産み、人形の技術が高められていきます。オルゴールの持つゼンマイの力と音楽を奏でる特性から人形に
オルゴールを込めて自動で動かすオートマタが生まれます。
オルゴールを鳴らしながら、その ゼンマイで人形が自動で動く仕組みが珍しく、人気を博し優れたオートマタ作者が生まれます。
ヴィシー工房の人形は中でもオルゴールで自動的に動くものを沢山世に出して注目を集めます。
ヴィシー工房で働いていたスイス人・ミッシェル・ベルトランは、ヴィシー工房が閉じられた時、その全ての材料を引き継いで、スイスのサンクロワの隣村でオートマタを造りを続けました。
彼の工房は景色の良い静かな高台にあり、家全体が工房を中心に作られました。
ヴィシー工房から引き継いだオートマタの部品の中で特に大切にしたのは、100年前のチェコ製のガラスの目玉でした。幾つもの引き出しを開けて大小様々の目玉を見せるとき、まるで宝物でも見ているようでした。
「この目玉が無くなるときは、オートマタの製作を辞めるのだ」と、いつも口癖にしていました。
仕掛かりのオートマタがいくつも工房内にあり、歩くのも不自由するほどで、天井からはオートマタのヘッドが多く吊り下げ
られ異様な光景を呈していました。
100年前の部品のみを使用することをモットーとし、ヴィシーのデザインを踏襲することを心がけました。
首も布地も古いものを見せて得意がりました。10代の前半にヴィシーの弟子となり、その工房で働き、その伝統を受け継ぎ後継者として、正統的な技法で創り続けることが彼の使命でもありました。
最高のオートマタ作者として伝統的なオートマタを造るかたわら、世界中のオートマタの修復と復元に大きな貢献をしました。
どこにでも飛んで行き、特にモナコ王国の国立人形博物館のコレクションは、彼の努力で多くのオートマタが甦りました。
ばらばらに壊れて3分の1ほどのオートマタを元のように復元するのだと目を輝かせるのを見て、人形を愛する彼の意気込みを見せて印象的でした。
来日したときに一番興味を見せたのは国立文楽劇場で人形師が見せた芸術でした。
食い入るように文楽人形を見続けました。プロが見せる真剣さに打たれましたが、日本にこれだけのものがあることに驚いた様子でした。
それは又、日本人であることの誇りを感じさせたことでした。
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